栗の思考整理録

インプットしたことに脚色をつけてアウトプットします

本を読んだとき「以前その本に会っていた」感覚を得ること

本の貸し借りはエネルギーの要る行為だなって思う

本をよく貸してくれる知人がいる。

先日も、とある啓蒙系のビジネス書を貸してくれた。

“買う”んではなく”借りる””貸す”ことの効率性は絶対。でも上述の知人は軽ーいコミュニケーションの一環で本を貸してくれるかんじ。「ほら、よみなよ。かすから。」くらいの温度。

鞄に入れた帰路はその本の存在が頭を離れなかった。重たくて、わざわざオフィスに立寄り自分の机に置いてきた。

貸そうと思ってくれること自体すごく嬉しいし、そういう干渉は暖かいと思う。

けれども、本の貸し借りの際は肩に力が入ってしまう。

理由はちゃんとあって

1 本の状態を損ないたくない。

2 (自分が貸すとき)押し付けがましさを感じて、気が引ける。

1 はその通り。紙質にもよるけれど本は消耗品だと思っている。

手にとり捲る回数だけ、腰が曲がって、肌にしわが入って、シミが増えていく。

2 なんだけれども、これは本(とその内容)と向き合う姿勢によるものかもしれない。

荒川洋治氏が、読書という行為を「会っていた」というエッセイで論じている。

一度本を読むと、その人のなかに種のような、ある種の感覚が根付くのだという。

それは伝統のようなもの。同じ伝統(つまり本の内容)に再会したときに始めて「既に出会い自分の血肉となっている伝統だ」と気付くのだという。「会っていた」ことに気付く。

本を読むことはテンポラリーな眼鏡をかけて本の景色を覗く一過性の行為ではない。

自分の血液の質に変化を起こす行為だと思う。そして一度おこった変化は、その度合いに関わらず不変だ。

「会っていた」という形容はもう言い得て妙で。

荒川氏の言葉を借りれば、本を貸すことは借り手の中に新たな伝統を送り込むこと。

貸し手として、借り手の体内に首を突っ込む過干渉。消えない刺青を相手に彫るような。

本を貸すことにはいつも遠慮ともつかぬ躊躇を感じるのです。


でも、刺青は多くてもいいかも。そうも思う。

もちろん、今日本を貸してくれた知人に「こいつに判子を押してやろう」なんて気持ち無いと思う。

その知人自身はというと、人に薦められた本は絶対読むこと決めているようだし。

まだ若い私は刺青(荒川氏の言う伝統)の審美眼を持っていない。

同世代やより若い友人たちもきっとみんなそう。

色んな感覚を取り込むのは可能性に満ちた行為なんだろうな。